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 【花主】3.14159265358979…… (オフラインサンプル)

6/26シティにて頒布予定の新刊のサンプルです。
サンプルに花村いませんが、間違いなく花主本です;;


『3.14159265358979……』A5 32P / コピー / R18 / 400円




*****
どうにもこうにも違和感がして仕方ない。
それもそのはず、首筋――正確には右の耳下の部分――には少し大きめの絆創膏が貼られていた。
普段ではありえない失態に、朝から孝介はちょっと凹み気味だ。


          *


時間は小一時間ほど遡る。
場所は堂島家の洗面台前。
いつも使う電気シェーバーにスイッチを入れたはずが、うんともすんとも言わない。充電が切れていただろうかと充電用のACアダプターをさしこんだままスイッチを入れてみたが、やっぱりびくともしない。

「お兄ちゃん? どうしたの?」

なかなか洗面所から出てこない孝介を心配して、菜々子がひょこっと顔を覗かせた。

「あ、ごめん。すぐにご飯にするから」
「だいじょうぶ、菜々子たまごやいたから。もうすぐパンもやけるよ」
「そっか、ありがとう。菜々子はえらいな」
「えへへー」

シェーバーを元のところに戻し、菜々子の頭をポン叩いた。
元々コードをつけて使うタイプのシェーバーではないから駄目なのかもしれない。とりあえず先に朝食を済ませて、その間に少しでも充電が出来れば一度ぐらいはなんとかなるだろう。

「じゃあ、ご飯にしようか」
「うん、お父さんもよんでくるー!」

嬉しそうに洗面所から飛び出す菜々子を微笑ましく見送ると、もう一度シェーバーを振り返った。
駄目ならあれを使うしかないが、孝介はそれがどうにも怖くて仕方ない。

「考えてもしょうがないか」

恨めしそうに風呂場に向けた視線を引き剥がし、菜々子の後を追って台所へと戻ると、ちょうど菜々子が堂島と一緒に席に着いたところだった。

「いただきます」

軽く手を合わせるようにして挨拶をし、朝食に手をつける。一番最初に孝介がここで食べたメニューと同じ目玉焼きとトーストが食卓に並んでいた。

「おいしい?」
「ああ、美味いぞ、菜々子は良い嫁さんになるな」
「えへへ、お兄ちゃんもおいしい?」
「うん、美味しいよ」

ここに来るまで殆ど朝食はとらなかったが、こうして団欒するのも悪くない。もっとも堂島が朝食にいることはほとんどないのだが、そのせいか今日の菜々子はちょっと浮かれ気味だ。

「お父さん、あのね、お兄ちゃんね、さっき洗面所でぼーっとしてたんだよ」
「ん? そうなのか? まだ寝ぼけてたんじゃないのか?」
「まさか、叔父さんじゃあるまいし」
「そーだよ、おとうさんじゃあるまいし」

クスクスと笑いながら孝介の言葉を菜々子が真似る。堂島が困って頭をかくのが嬉しいらしく、更にコロコロと菜々子が笑った。

「じゃあ、いったいどうした」
「シェーバーの調子が悪いみたいで」
「シェーバー? お前ヒゲなんか生えてるのか」

普段ヒゲを剃っているのかどうなのかわからない堂島は、シェーバーの不調に全く気づいてなかったらしい。もっとも孝介ですら今朝はじめて気づいたわけだが。

「生えますよそのくらい。毎日剃るって程じゃないけど」
「必要でも毎日剃らねぇのがここにいるけどな」

ざりざりと自分の顎をなでる堂島にも無精ヒゲの自覚はあったようだ。

「電気が駄目ならT字で剃りゃ良いじゃねぇか」
「そうなんですけど」

――それがしたくないから困っているのに

でもそんなことを堂島に言うのもなんか悔しく、孝介は曖昧な笑みを返して誤魔化す。

「お兄ちゃん、かみそりこわいの?」

が、それも菜々子の一言で台無しとなった。時々鋭く心を読んでくるこの従妹の勘の良さには驚かされる。さすが刑事の娘と言ったところか。

「何だ、そうなのか?」

その刑事である堂島が一瞬氷ついた孝介の表情を見逃すはずも無く。仕方なく全てを白状する事になってしまった。

「俺も最初の頃は切れるんじゃないかってヒヤヒヤしたもんだしな。慣れるまでは怖いか」
「そんなもんですか?」
「慣れちまえばどって事ねぇし、むしろ電気より綺麗に仕上がる分いざって時は重宝だぞ」

そんなこと言われてもピンはこず。またしても孝介は曖昧な笑みを返した。

朝食を終えて片づけが済むと、一縷の望みを抱きつつ洗面所へと足を踏み入れる。先程コードを繋いだままにしておいたシェーバーからそれを引き抜き、恐る恐るスイッチを入れるが、やはりびくともしない。
堂島が言っていた、いざって時がどんなときだか良くわからないが、とにかく今日はT字剃刀で頑張ってみるしかなさそうだ。
意を決して風呂場の扉を開けると、中から堂島が使っているT字剃刀を手に取った。

洗面台の上にそれを置き、両の掌で石鹸を泡立てる。残念ながら無精な堂島がシェービングクリームを切らしたままにしておいたらしく、全く中身の感じられない缶が恨めしい。なんとか肌理の細かい泡を作るとそっと自分の顎から首筋へと乗せるように塗りつけた。
しかしそこは所詮石鹸。堪え性も無く孝介の肌の上を滑るように落ちていく。寛げた制服のシャツが濡れないうちに、なんとか始末をつけてしまわないと。
そう焦ったのが悪かったのか、ピッと刺す様な感覚が孝介の顎を襲った。間もなくじんわりと滲む赤い液体。

「お、遅かったか」

T字を右手に喉を流れる赤い色をぼうっと目で追っていた孝介のもとに、堂島がやってきた。その手には湯気の上がるタオル。それを広げると血が流れている孝介の肌へと押し付けた。

「あっつ!」
「我慢しろ。それからほら、手に持ってるの貸してみろ」

そう言うがはやいか、孝介の手からT字を取り上げ、シャツを一気に剥ぎ取った。

「鏡の前に立て」

言われるままに先程までと同じように鏡の前に立つと、堂島にタオルを奪われた。だいぶ赤く染まってしまったそれははやく洗わないとシミになってしまうだろう。けれど、そんなことも気にせず、堂島はタオルを広げて孝介の顎全体を包むようにした。

「床屋の剃刀よりは使い易いはずだぞ」

そう言われても、母が最初に連れて行ってくれたのが美容院だったせいか、床屋自体行ったことがない。

再び孝介にタオルを預けると、堂島は石鹸を手に取り、先程孝介がしたように泡をたてはじめた。

「一気に使うと流れるだけだから、少しずつな」

程よく温まった孝介の顎の傷とは反対側に泡を塗りつける。そしてそれを掻き分けるようにして、孝介の背後からT時剃刀を滑らせてきた。

「間横に動かしたりしなきゃ切れやしねぇから、ゆっくり一方にだけ滑らせていけ」

顎の一番とがったところに泡を集めるようにして滑らす。鏡越しに孝介はじっとその様子を眺めていた。

「な、ほらやってみろ」

渡されたT字を恐る恐る肌に当てる。堂島に言われた通りにゆっくりと滑らすと、さしたる抵抗なくまだ幼いヒゲが跡形も無く剃りあげられた。さすがに右手で右側を剃るのはやりづらいが、それでも慌ててやったさっきみたいに血を見る事もなく、何とか綺麗に剃りあがった。

「大丈夫だったろ?」

得意そうに笑みを向ける堂島がちょっと憎らしくもあるが、おかげでなんとか身だしなみも整えることが出来て、孝介がほっと息を吐く。
問題はタオルに未だ滲み続ける血か。

「お兄ちゃん、ちこくするよー」
「お、もうそんな時間か。俺も出かける準備しねぇとな。ほら、さっさとどいたどいた」

起き抜けで朝食をとった堂島は洗顔もまだだ。とりあえずタオルについた血をざっと洗い流して洗濯籠に入れると、孝介は言われるままその場を堂島に譲った。
まだ出ているかもしれない血もそのうち止まるだろうと、制服を羽織りボタンを止める。階段下に置いてあったカバンを手に取ると、玄関で待つ菜々子の元へと急いだ。

「おまたせ、行こうか」
「あ、ちょっとまって」

孝介の顔を見るや否や忘れ物でも思い出したのか菜々子がせっかく履いていた靴を脱ぎ居間へととって返した。何事かとしばらく待つと、絆創膏を手に戻ってくる。

「けがしてる。菜々子がはってあげるね」

玄関の段差を利用してもまだ孝介の肩に手が届かない菜々子が、腕を引いて来た。身体をかしげる形になった孝介の喉に、大きめの絆創膏がぺたりと貼られる。

「はい、できた」
「ありがとう」

ニコッと可愛らしい笑顔をうかべ、菜々子が再び靴を履く。

「いってきまーす」
「いってきます」
「おお、きをつけてな」

洗面所からひょっこり顔を出した堂島に見送られ、二人は家を後にした。