** グレナデンシロップ **


「おつかれさんっ!」

バンッと大きな手で背中を叩かれ、克哉はグッと背筋を伸ばした。

「本多…痛いじゃないか」
「んな背中丸めて仕事してっと、いつまで経っても終わらねぇぞ」

別に姿勢を悪くしていたつもりはなかったが、書類製作に熱中する余り前かがみになっていたようだ。それを本多が諌めてくれたのだが、やった本多自身も少々やりすぎたと思ったのか、今度は軽くポンポンと同じ場所を叩く。

「お、何だ。結構何とかなってるじゃないか」

その手をそのまま肩に置き、本多は克哉の手元を覗き込んだ。

「おかげさまで」

集中してやったのが良かったのか、それともここの所の忙しさに自ずと手際が良くなったのか。今までだったら気が遠くなるほどだった仕事がかなりの速さでこなせるようになっていた。

(眼鏡の効果もあるかもしれないけど)

Mr.Rと名乗る謎の男に貰った眼鏡は今日も克哉の胸のポケットに入っている。
最初こそその眼鏡の効果に驚愕し恐れもしたが、慣れというのもまた恐ろしいもので。今ではそれを有効的に利用できるようになった。とは言え、さすがにまだ眼鏡をかけた自分自身を操ることは不可能に近いので、『一種の賭け』と言う感覚がなくなったわけではないのだが。それでも仕事はキチンと終わらせる辺り、なんだかんだ言っても自分の根幹まで捻じ曲げられているわけではないのだろうか。

だとすると眼鏡をかけた克哉がやっている行動全てを自分自身のものと認めなければならない訳だが。

(いくらなんでもそれは…)

いささか無理な注文と言うものだ。
元々、あの眼鏡自体いったいどういうものかさっぱりわからない代物だ。Mr.Rに聞いたところで明確な答えも返ってこない。ならもうある物はあるように受け止めるしかない。

そう考えた末落ち着いたのが現在の共存関係なのだから、それはそれで結果オーライと言うものだろう。

「なら、克哉は今日は残業ナシだな」
「んー、どうかな」

今週末にはまたMGNとの打ち合わせがある。それまでにしなければいけないことも山積みだ。前倒しでやっていかないと何かあった時に対応できなくなる。何せ、このプロジェクトが始まってからその『不測の事態』がありすぎなのだから、時間はいくらあっても足りない。

「そういう本多はどうなんだ?」
「俺か? 俺は、ま、ぼちぼちだな」

自分のデスクに詰まれた少なくない書類を見て、本多が渇いた笑いで答える。デスクワークより足で稼いでくることを得意とする本多らしいと言えばらしくて、克哉は苦笑を浮かべた。

「手伝おうか?」
「や、いいって。克哉も帰れる時は早く帰って休んだ方がいいぞ。お前に倒れられたら困るからな」
「それは本多だって同じだろ」

最初の頃より幾分余裕が出てきたとはいえ、現状、ただ一人欠けただけでもこのプロジェクトの成功はありえない。
ともかく身体が資本で、その身体が壊れない程度に必死に頑張るしかないと言うことだ。

「俺はその辺頑丈にできてるからな」
「…そうだけど」

本多の言葉が事実なのは、大学の頃からの付き合いである克哉が一番よく知っている。自分も決して弱い方ではないとは思うが、本多と比べることはそもそも間違ってるレベルだ。

「つー訳だから、克哉は自分の仕事が終わったらさっさと帰れよ」
「わかったよ」

ヘッドロックするように克哉の首にまとわりついていた本多の腕が外れ少し涼しくなる。その涼気で気持ちを引き締めるようにして、克哉は残りの作業に没頭することにした。




*****

結局残業らしい残業にならず帰路に着いた克哉がいつものように公園を通ると、見たことのある人物がどこからともなく現れた。

「こんばんは」

Mr.Rだ。
神出鬼没なこの男とここで会うのは何度目だろう。

「その後いかがですか?」

まるで商品モニターに使用感を聞くようなその問いかけも、殆ど挨拶代わりだ。いや、そもそも克哉は文字通りあの眼鏡の商品モニターに過ぎないのかもしれない。
その割には問いかけの答えは既にわかっている笑顔なのが、なんとも不思議な感じだが。あの眼鏡に絶対の自信を持っているからなのか、それとも本当に全てを見通しているのか。それともその両方なのか。

「ええ、いいと思います」
「それは良かった。やはりあなたは私が見込んだ通りの方ですね。安心いたしました」

どのように見込まれたのか良くはわからないが、とりあえず自分が期待を裏切っていないことに克哉は安堵した。と同時にある種の自信が湧いてくる。

『人が物を選ぶように、人を選ぶ物もある』

確か眼鏡を渡された時に、そんなことを言われた。

『あなたの力を示してくだされば結構です。賢く正しく、悪魔すらも欺くほどにうまく立ち回れってください』

そうすれば3ヶ月後この眼鏡は克哉のものとなると。
その価値が如何ほどなのか、その時の克哉には良くわかってはいなかったが、今ならわかる気がする。この眼鏡がもたらした自分の周りの変化が何よりの証拠だ。
無意識に眼鏡の入った胸のポケットへ手を伸ばす。まるでお守り代わりのようだったそれが、今では自分の一部のように感じられる。
そんな克哉の様子を見て、Mr.Rが満足そうに微笑む。

「最近は余り眼鏡をかけている時とそうでない時の差を感じないのではありませんか?」
「え?」

突然の問いかけに克哉が目を丸くすると、男は更に笑みを深くし。

「やはり、そうですか。それでこそあなたです」

そして、またしても克哉の返事を聞く前に結論を出した。

「あの…」
「なんでしょう?」

確かにここのところ、眼鏡の着脱自体での変化は余り感じられない。幾分眼鏡をかけた時の方が気が大きくなる感じがするが、それも気分の問題なのかもしれない。特に歴然だった仕事中の能力の差が縮まったのが気のせいでは片付けられないことを、今日も実感したばかりだ。

「不思議なことはありません。最初に申し上げたでしょう? あなたはとても優秀な方なのです」
「いえ、オレは…」
「あなただって、もうとっくにわかっているんじゃありませんか?」

― 本来のあなたが、どういうものか

Mr.Rのぞっとするような笑顔が克哉を見つめる。目深にかぶった帽子と眼鏡の奥から克哉をじっと見つめている。

― まるで、何かを見極めているように

「それでは、私はこれで。またお会いしましょう」

硬直した克哉からゆっくりと視線をはずすと、男は黒いコートを翻した。







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