|||||| 櫻花 ||||||
三月も中旬になろうかというの晴れた日曜日。暁人は蔵の整理をしていた。入口を大きく開け放してあるにもかかわらず春の日差しは蔵の奥までは届かない。その上冬を越えた蔵はじっとりとしていて、少し不気味だ。ひとりで作業するのは心許ない感じだが、早く始めないとまだ短い昼はあっという間に過ぎてしまう。 「ん? この箱は…?」 軽く意気込みとりあえず棚のものからと手を伸ばした暁人の目の前にあるのは、少し大きめの桜の飾りがついた木箱。桐で出来ているのかも知れず、どことなく雅な雰囲気をかもし出していた。そっと開けてみると中には。 「へえ…こういう風にしまっておくものなんだ」 それはこの間の休日、庭先で見ることになったものと同じものだった。 ◆◇◆ 時間は一週間遡る。 毎年恒例となっている八尋学園茶道部の野点。加納が在学中の頃から加納の祖父が住むこの屋敷の広い庭を使ってお茶の会が開かれることは良くあった。中でも、毎年三月に梅花の満開と合わせて行われる卒業生を送る野点はかなり本格的だと加納から聞かされている。 その野点に、今年は暁人も呼ばれる事になった。茶道部員達はみな着物を身にまとっていてるものだから、普段着同然で紅い敷物の上にあがっている自分の姿が妙に浮いて感じられ、暁人は少しばかり居心地が悪い。 そんな暁人を気遣ってか、普段は着物で現れるはずの加納も今日は普段着だ。 部長と呼ばれている女子部員が火鉢の傍に座り『亭主』を勤めた。自分の前に置かれた茶碗に茶杓でお茶をすくって入れる。そこに火鉢の上にかけてあった鉄瓶から湯を注ぎ、茶筅で前後にかき混ぜた。そしてゆっくりとそれを引き上げ軽くまわして加納の前に差し出す。 加納が両手を前につき、背筋を伸ばしたまま亭主にお辞儀をした。そして茶碗をまわし静かに頂く。その様子を緊張しながら暁人は伺っていた。 一通り済むと次は暁人の番。見よう見まねの作法はぎこちないが、それでも何とか頂くことが出来た。でも、お茶独特の苦さが口に残る。 「やはり、暁人には苦かったか」 お茶を頂いた後、敷物の上から降りた暁人に加納が声をかけた。 「ええ、ちょっと。でも眞之さんのより、お茶少なかったですよね?」 「ああ、俺のはいつも濃い目だからな。君のはかなり薄めに点ててくれていた様だが、普段飲みつけないと苦いだろう?」 「でも、美味しかったです。眞之さんは濃い目が好きなんですか?」 『ああ』と短い返事を加納がしたのと同時に、先ほど亭主役をした部員が加納を呼んだ。加納は暁人に軽く手を上げてその部員の許に歩いていく。そして二言三言会話をするとすぐに戻って来た。 「日も傾いてきたし、今日はこれで終わりだそうだ」 「そうですか」 部員達の後片付けを手伝おうかと思ったが、庭を貸してもらうだけでも恐縮してるらしい彼らに丁重に断られてしまった。仕方なく、庭を散策する事にした暁人の目に止まったのは、一本の桜の木。 「どうせなら、桜の季節にもやればいいのに」 その木を見上げ、誰に話し掛けるでもなく暁人はつぶやいた。今はまだ蕾も膨らんでいないように見えるが、もうまもなく咲き始め、すぐに満開だろう。梅の花も確かに綺麗だが、満開の桜の下でやる野点はかなり風情があるんじゃないかと思う。 「その桜は四月の下旬にならないと満開にならないんだ」 「え? だって…」 「これは桜は桜でも、染井吉野ではない。霞桜と言う里桜の一種で開花時期が一番遅いんだ。俺が生まれた時祖父が植えてくれたものだからな」 「じゃあ、これ眞之さんの桜?」 暁人の傍に立ち、同じように桜の木を見上げながら加納が目を細める。 「そうなるな。満開になった時など染井吉野に引けを取らないほどの美しさだと俺は思うんだが、時期が四月の下旬では三年生は卒業してしまった後だ。さすがに間に合わないだろう?」 確かに。でも、だったら新入生の歓迎会とかに使えば良いのにと暁人は思った。それを見透かしたように加納が視線を向け微笑む。 「以前はその時期にもやっていたんだが最近はご無沙汰だな。まあ、彼らには彼らの事情があるだろうし、俺の我侭を聞いてもらうわけにも…な」 そう言って微笑んだ加納の顔が暁人には酷く淋しそうに見えた。 ― 続きは冊子にてお楽しみ下さい ― |
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