** 鄙鳥 柊×葉 **


柊が初めて葉を見たのは、智裕の説得に通い始めてひと月ぐらい経った頃だった。





その日も智裕は素直に柊の話を聞く気などなく――と言うより初日以来まともに聞いてくれた試しはない――今日のように見世のどこかに姿を晦ましてしまっていた。だからと言って手ぶらで帰るわけにもいかず、下男たちが方々探し回って智裕を見つけてくるのを、見世の片隅で仕方なく待っていた。
出された茶と菓子に申し訳程度に手をつけながら、懐から煙草を取り出すと一本火をつける。だいぶ前に悪さをしていた頃覚えたものだが、何かと悩みの尽きない大店の大番頭と言う仕事柄、これが在ると無いとでは雲泥の差だ。

尤も、最近の喫煙理由の最たるものは仕事のそれでは無いが。

すぅっと一息に吸い込み、ため息と同時に煙を吐き出す。殆ど無意識に額に皺を寄せると、これまた無意識にそれを右手の中指で押さえた。
そもそも、この役目がこんなに困難だとは柊自身思いもよらなかった。普通の人間ならば、こんな所で体を売りながら、私生活さえ管理される不自由な生活より、大店の跡取りとして迎えられることを一も二も無く選ぶはず。それなのに智裕はガンとしてそれを拒む。理由は至極簡単。

「僕はここの生活が気にいってるんで」

その言葉を聞いた瞬間、柊は昔馴染みのある男を思い出した。

その男――椿恭一――は柊が大番頭になるよりだいぶ前、やっと一人前として認められた頃に出入りしていた店で知り合った遊び人で、文字通り一日中酒場や賭場、廓などに入り浸り、毎日を面白おかしく過ごしているような輩だった。
出会った当初はその人となりに眉を顰めた事もあったが、ひょんなことから恭一がその実とても有能な男で、いざとなればあっという間に大金を稼ぎ出してしまう凄腕である事を知るに至る。そうなってしまえば二人の距離が縮まるのに、さして時間が掛かるはずもない。
尤も、その能力は本人が気が向いたほんの僅かな時にしか発揮されない。そして稼いでは無為に浪費している生活を見るにつけ、何かと小言を言ってしまったりもしていた。
けれど、まあそれもずいぶん前の事。そんな忠告自体無駄な事と知った今は諦めて好きにさせている。

しかし、相手が智裕ではそうは行かない。一刻も早く考えを改めさせ、大店の跡取りとして教育しなおさなければいけないし、智裕が客として付き合っていた人物達とも、今後の為にも話を付けて置く必要があるだろう。
いっそ、そうして周りから固めて智裕がここに居辛くなるようにしてしまうのも手かもしれない。

ともあれ、智裕をどうにかして説得しなければ、自分がここ『鄙鳥』に通うのを止める訳にはいかないのだし、結局全ては智裕次第だ。

再び、大きく煙草を吸い込んで吐く。白い煙が華美な建物の中をゆっくりと上るのを柊はなんとなく目で追った。

「失礼します」

胡乱げに天井を眺めていた柊の手元に、新しい湯飲みが差し出された。同時に目に入った白い手を遡ると、豪奢でありながらも落ち着いた色合いの着物に行き当たる。そのまま更に視線を頭部へと滑らせていった柊は、はっと息を飲んだ。

「君は……」

陶器のような白い肌に、漆黒の髪。同じく深い色の瞳。薄い唇。

「葉、と申します」

そう名乗った青年に柊は釘付けになってしまった。

「総出で探しているのですが生憎まだ掛かりそうなのです。申し訳ないのですが今しばらくお待ちいただくか、もしくは一度お帰りになっていただいた方がいいと店主が申しておりますが、いかがなさいますか?」

知らず、こくりと喉がなる。

「柊様?」
「あ、ああ。いや、待たせて貰うよ」
「そうですか。では、何かありましたらあちらにおりますので声を掛けてください」

そう言って葉が指した先は、格子の前。色子達が己を物色させるための陳列棚だ。既に仕度を終わらせた色子が数名、座しているのが見て取れる。
言われるまでもなく、葉の姿は下男のそれではない。という事はつまり、葉も色子のひとりであるわけで。
柊が『わかった』と口にすると、改めて葉は淹れたての温かいお茶を勧め、冷めてしまったもう片方を下げるために引き寄せる。自分から遠ざかっていく見知った青年の手を、柊は考えるよりも早く掴んで引き寄せた。いきなりの事に、葉の手にしていた湯飲みがカシャンと音を立てる。

「ひ……いらぎ様?」
「――あ、すまん。着物にかかってしまったか?」

倒れかけた湯飲みの中にはまだ僅かにお茶が残っていたので、衝撃で飛沫が葉の手にかかってしまった。冷めたそれなので熱くはないだろうが、着物にかかったとすれば厄介だ。慌ててまだ自分が掴んだままの手を点検するも、特に問題はないようだ。

「いえ大丈夫です」

時を同じくして葉の口から無事が告げられ、柊は『そうか』とほっと息を吐いた。そんな柊の様子を見て、くすりと葉が笑う。それを目の当たりにした柊は、もうその手を離すことはできなかった。

「葉、と言ったな。少し時間はあるか?」

上下から両手で葉の手を包む。そしてゆっくりと葉を見上げた。その強い視線に気圧され、葉は驚いたように目を瞬かせる。柊の意図とすることがわからず、困惑もしているのだろう。

「はい」

程なく彷徨った瞳が再び柊に戻ってくると、はっきりした声でそう告げた。

「ならば、少し話を聞かせてくれ」
「わかりました」

葉を引き止める事に成功し、やっと柊はその手を離した。片付けかけた湯飲みを端に置き、葉は柊と向かい合うようにして腰をおろす。その僅かな所作さえ柊を惹きつけてやまない事など、葉は思いもしないだろう。
柊は燻らせていた煙草を消すと、両の指を絡ませるようにして手を組んで肘を机に付き、その手を口元へとあてた。少し屈みこむような姿勢になった事で、自然葉と視線の高さが同じになる。間に置かれた湯飲みから立ち上る湯気が視界を僅かに揺らすのも気にせず――むしろそれすら葉の姿を引き立たせるような気すらしながら――その整った顔を凝視した。

「――あ……の、お話、と言うのは」

どのくらいそうしていただろう、柊の視線に居た堪れなくなった葉が話かけてきて、柊は再び我にかえった。

「あ、ああ」
「智裕の事なら、おれより司さんや進哉にでも聞いた方が詳しいと思いますけど、呼んで来ましょうか。進哉は今智裕を探しに行ってるのでつかまりませんが、司さんなら――」

柊の用向きは『智裕の説得』なのだから、葉がそう思うのも仕方のないことだが、今柊が葉にしたい話はそれではない。

「いや、それは……いずれ聞いてみなくてはいかんと思うが、今はいい」
「そう……ですか。じゃあ、おれに聞きたい事って」

黒目がちの瞳が、柊をじっと見つめる。吸い込まれそうになる感覚にぞくぞくしながら、柊が口を開く。

「君の事が知りたい」
「おれ、の事?」






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