** 花街柳巷情話 鄙鳥 **


人の欲望がきれいに装飾されて華やぐ街『花街』。
女性を求めて客が集まるこの界隈にも、少なからずそういう趣味の者はおり、いわゆる男娼窟と呼ばれるものもいくつか存在した。その中でもこの見世『鄙鳥』は、かなりの上客が集まる見世でそれなりに評判を呼んでいる。
見世が始まるのはお天道様が天から降り始める時間。とはいえ夕闇が訪れるまではよほどの物好きでもない限り、まじめに仕事をしている頃合だ。いかな評判の見世とはいえ時間はゆっくりと流れる。
店主である桐野は、これから忙しくなるであろう時間のためにこまごまとした準備に追われていた。もちろん雑多なことは下男たちがこなしてくれている。なので開店前からこの時間桐野のすることといえば、見世のお得意の予約を確認したり商品である色子たちの状態に目を配ったりする、そんなところだ。
ぱらりと予約帳をめくる。そこに見慣れた名前を見つけて苦笑する。

「あの人は、自分の見世を何だと思ったるんですかね」

桐野が見つけた名前はこの見世の持ち主である渡辺の名前だ。桐野は渡辺に頼まれてこの見世の切り盛りをしている雇われ店主に過ぎない。
わざわざ予約など取らなくても、いくらでも色子を好きにすることはできるだろうに、こうして名前を連ねるには、彼なりの考えがあるらしい。
曰く、客は何においても優先すべきもの。たとえ自分の見世であっても、その客を押しのけて我を通すのはあってはならないこと。なのだそうだ。
仕事熱心なのか融通が利かないのか。古い付き合いである桐野ですら渡辺の考えていること全ては計り知れない。

「まあ、そんなところが気に入ってるんですが」

いくら付き合いが長いと言ってもこう言う特殊な商売を、誰にでも任せられるわけではないだろう。おそらく桐野が気に入っている以上に渡辺は桐野のことをかってくれているのだろう。

「にしても、この間は葉、今日は司ですか」

実のところ、渡辺の真意は別のところにあるのではないかと桐野は思う。幸いなことにこの見世は繁盛しており、色子たちもお茶をひくようなこともなく、日々勤めをこなしている。ましてや売れっ子の色子となればその勤めは過酷を極める。見世としても休みを取らせたくはないし、客も当然隙あればとその子を狙ってくる。
そこで渡辺の登場だ。
色子たちは特に何も言わないが、実際のところ渡辺は色子を抑えてもそれらしいことには及んでないのではないだろうか。少なくとも持ち主である彼を押しのけてまでその色子を指名してくるような、そんな下品な客筋をこの見世は持っていない。つまりはその間は色子を休ませることができるわけだ。時間にして一辰刻ほど。それが充分かどうかは色子たちが喜んで渡辺を迎え入れる態度を見ても明らかだ。もちろん、渡辺がこの見世の持ち主だということを抜きにした上で、だ。
ふと、桐野は自分が囲っている少年のことを思い出す。この見世の一角を住まいとしている桐野の、その一室にいる少年。年齢からすればすでに少年という歳ではないのだが、その容貌は少年という言葉がしっくり来る幼さだ。物書きを目指しているという彼を、言葉巧みに誘いこみ、その体の対価として生活の全てを桐野が面倒を見ているのだ。別に監禁している訳ではない。逃げようと思えばいつでも逃げられるのだが、そうはしないところを見ると、少年も自分の立場というものをよく理解しているのだろう。
ただ、渡辺の優しさを見習ってほんの少しでも彼にやさしくすることができるなら、この関係もまた形の違うものになるのではないか。 そんなことに考えが及び、思わず桐野の口に苦笑が浮かぶ。

「せんない事を」

できもしないことを考えても仕方がない。
それより、渡辺のことだ。
今日の指名は司。見世一番の売れっ子だ。潔癖で何者にも侵されがたい美しい風貌の青年で一見高嶺の花に見えるが、それゆえ男たちを誘う妖しい色気を含んでいる。当然それらを自分の手で花開かせたいまたは手折りたいという客は多い。確かに彼はここのところ働きすぎるほど働いている。いったいどこで見ているのか、渡辺の視野の広さには本当に脱帽する。
はらりはらりと帳面をめくる桐野の耳に聞きなれた控えめな足音が届いた。ふと顔を上げると奥の支度部屋への続き戸から支度を終えた色子が姿を現した。

「桐野さん、おはようございます」
「おはようございます」

現れたのは今まさに桐野が思いを馳せていた司だった。赤い着物に身をまとい着飾られた司は、よりいっそう肌の白さを際立たせ美しく見える。

「まだ早いですよ? もう少しゆっくりしておいでなさい」

売れっ子だけに一番に湯浴みをし支度を整えたのであろうが、客が来るまではまだしばらく時間がある。見世の表に出てきて客を引かずともいい司だけに、桐野は奥へと戻るように促した。

「いえ、たまにはこうして外を眺めたくて」

まだ人通りの少ない時間だからこそ、ゆっくりと眺められるというものか。人だかりができ始めたら、それはそれで控えめな司のこと、自ずと奥に引っ込むだろう。

「そうですか? なら、時間まで存分に眺めていてくださって構いませんよ」
「ありがとうございます」

礼を言った司が見世から外が眺められる格子のところに座す。着物をゆったりと広げくつろぐように体を斜に構える姿は、衆道の人間でなくても見惚れるほど。さすが売れっ子だけのことはある。
外が眺められるということは、暗に中も見えるということで。格子は客が色子を物色するためにあるいわゆる陳列棚みたいなものだ。それだけに町全体が閉鎖された花街の、一番の表通りからよく見える場所に設置されていた。ここからなら花街の入り口である大仰な門まで見通せる。客の流れもいっぺんにわかるというものだ。
ぼんやりと焦点を定めることなく外を眺めていた司の視線が、一点で止まる。門からこちらへまっすぐと伸びる道。見慣れた一人の男がこちらへと向かってきていた。用向きはおそらくほぼ間違いないだろう。

「桐野さん」

再び帳面へと視線を戻し仕事を始めた桐野を振り返ることなく司が呼びかける。

「何でしょう」
「柊さんがお見えです」

司の言葉に立ち上がると、桐野は司の脇までやってきた。そして、すっと伸ばされる白い手に促されて視線を向ける。なるほど、あれは確かに柊だ。ということは。

「仕方ありませんね、智裕を呼んできましょう」

苦笑しながら桐野がきびすを返す。が、思い出したように司に振り返り

「ああ、申し訳ありませんが、柊さんが来たらしばしお待ちいただいてください」

と言付けた。
本来なら司が受けるような雑事ではないが、相手が相手だけに司が一番の適任であろうと桐野は瞬時に判断した。それを言外に汲み取った司は『わかりました』と小さく笑って答えた。







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