** ディスアポトーシス **


今から思えば何とも目覚めの悪い朝だった。
いつになく身体が重く、酷くだるい。それでも何とか気力を総動員して起きあがりふらふらと窓際に寄ってカーテンを開ける。外を見やれば、どんよりとした雲が空を覆い、部屋の空気を入れ換えるべく窓を開くと同時に肌に触れる外気は、まだ秋の入り口だと言うのに、かなり冷たかった。

「……寒い」

ついこの間まで汗を流して外回りをしていたと思ったのに、秋空を通り越してすでに冬の気配が見えている。一年なんてあっという間だと克哉はしみじみ思った。
MGNとの仕事がひと段落し、元の八課―とは言っても社内での扱いは以前とは雲泥の差だ―を取り戻しつつある昨今。それでも年末商戦に向けて、徐々に仕事の量は増してきていた。MGNとの仕事をきっかけに、心地よい忙しさを感じて仕事ができる喜びを、克哉をはじめとした八課が手に入れることができたのは、本当に運が良かったのかもしれない。いや運などと言う言葉で片付けてはいけないか。あれはやはり八課全員の努力の賜物だろう。
そんな忙しい時期を過ごしたからなのだろう、ここに来て夏の疲れがどっと出てきたのかもしれない。普段より重たい身体を引きずりながら、それでもいつものように身支度を整えて部屋を出る。コートという程ではないが、やはりかなり空気が冷えている。わずかに震えた身体を一瞬抱きしめるように背中を丸める。けれど、そのままではあまりにみっともないと無理をして背筋を伸ばした。身体を動かしていればそのうち暖かくもなるだろうと希望的観測のままに震える身体に鞭をうち、いつもより冷える道をいつもより重い足取りで、それでもいつものように社へと急ぐ。いささか周りの景色が揺らいで見えるのが少し気になったが、社に近づいて知った顔が増えてきた頃にはそんな些細なことは霞んでしまう。
気づいてみればそこにあるのは日常=B

「おっす克哉。こんなとこで会うなんて珍しいな」

キクチの社員が増えてきているとはいえ、社屋はまだ先。眼鏡をかけていてもいなくても、克哉と本多が社屋の中以外で出社時に会うことは、殆どない。本多が遅刻ぎりぎりに出社してくると言うよりは、克哉が早いのだ。元来生真面目な性格がそうさせるのもあるが、何より克哉は己の愚鈍さを重々承知していたので、人よりなるべく早く出社して少しでもカバーしようと努めていた。
対して本多はあれでかなりできる奴だ。本来なら一課のトップを張る実力の持ち主。

(そう言えば本多も入社して間もない頃は、結構早く来てたよな)

一課と八課という違いはあっても同じ新入社員同士、頑張ってるよなと心強く思ったものだ。
そんな本多も八課に流れてきてからは、頑張るにも限界があったのか、徐々に出勤時間が遅くなり現在に至るわけだが。

「おはよう本多。今日はずいぶん早いんだな」
「はぁ? 何言ってんだ。克哉が遅いんだろーが」
「そんな訳ないだろ」

いつも通りに行動しているのは自分だ。朝からからかわれているんだろうと顔を上げて本多を伺い見ると、心配そうな顔がそこにあった。

「克哉、お前顔色悪くないか?」
「別に普通だろ?」

確かに少し寒気はするが、それ自体は今日の陽気のせいだろうし、本多が心配するようなことはひとつもない。それより、からかわれたと思ったのに、念のためと確認した時計で時間がいつもよりかなり遅いことに気づいて克哉は歩を速めた。

「おい、克哉!」

自然置いて行かれる形になった本多が小走りに追いついてくる。心配顔を変えることなく克哉に肩を並べる本多に、やんわりとした笑顔を向けた。

「大丈夫だって、どこも悪くないし。もし本当に具合が悪くなったらその時はきちんとするから」
「本当だな? 約束だぞ」
「うん。それより時間がやばい。早く行こう」

しぶしぶながらも納得した本多を急かすようにして克哉はキクチ本社へと急いだ。



     *



(ヤバイ…)

仕事を始めて数時間。時間が経つにつれて徐々に重さを増す身体、上がる熱。正常に業務をこなすことがままならない状況になってはさすがに克哉自身も己の不調を認めざるを得なくなった。
思い返せばあの朝の寒さはなまじ季節のせいばかりではなかったのだろう。本多は真面目に心配してくれていたのに『からかわれた』と思ってしまったことをすまなく思うが、それも後の祭り。
最も朝の時点で自らの体調の悪さがわかっていても間違いなく出社しただろうから、そう考えれば大した問題ではないのかもしれない。 違いと言えば薬を飲めたか飲めなかったかぐらいか。

(飲んでおけば今日ぐらい乗り切れたかも)

今からでも医局に行って薬をもらってきたいが、もうすぐ昼になる時刻。良く考えて見たら朝もなにも食べずに出てきていて、胃が空っぽのまま薬を飲んで良いものかどうか。
それに、午後はMGNの御堂が来社しての会議が控えている。薬で朦朧とした頭で何かヘマをしでかしても困る。とは言ってもこの状況もまた大して違いはない。

(せめて眼鏡があればな…)

普段なら絶対に忘れない―家にわざわざ置いてきたとしてもいつの間にか手元にある―眼鏡が、今日に限ってない。眼鏡さえあればこの絶不調をしても、そつなく会議をこなすことができるかもしれないのに。

「克哉、大丈夫か」
「本多…」

外回りから帰ってきた本多が、自分の席よりも先に克哉のデスクへと近寄ってきた。パソコンの画面は起動しているが、打ち込んでは消去しまた打ち込んではエラーの連続で、書類の処理は一向に進んでいない。体調を加味して外回りをやめてデスクワークに切り替えたのにこれではまったく意味がない。

「大丈夫じゃなさそうだな。メシ、食えそうか?」
「……うーん…食べたくない…かな」

かと言って食べなければそうでなくても奪われている体力が更に無くなるのも目に見えている。と言うか既に限界…なのだろう。

「克哉、お前帰れ」
「そうは行かないよ。午後には御堂部長来るだろう?」

わざわざ御堂が社を訪れると言うことは、会議の重要度がそれなりに高いことを示している。他の人間ならともかく、克哉がその場にいないと言うのはまずい事ぐらい、本多だって充分承知してるはずだ。

「そりゃそうだけどよ。そんな状態で会議した方がまずいんじゃねぇ?」

お説御もっとも。
さてどうしたものかと熱で霞がかる頭で考える。やはり医局に行ってこようか。そう思った矢先、時計が十二時を指した。

「悪い本多。オレちょっと寝てくる」

昼休みの一時間でも睡眠がとれれば少しは体調も回復するかもしれない。やはり薬を飲むのははばかられるが、そのぐらいならいいだろう。

「メシは…やっぱ無理か」

独り言のように言った本多に克哉が力無く笑みを向けると、本多の手にしていたコンビニ袋が目の前に差し出された。

「何?」
「これなら食えるだろ、食っとけ」

がさがさとしたビニールから出てきたのは、なんとも可愛らしいサイズのプリンだった。大きさの割に二五〇円と高値だが、生クリームがふんだんに入っていて濃厚なもの。いくらコンビニとは言え、どんな顔をして本多がこれを買ったのかと思うと、ちょっと笑える。

「何だよ。風邪ひいたらプリンだろ?」

先ほどの気だるい笑みとは別のものを克哉にみて取った本多が、なんでもない事のように言い放つ。どうやらプリンは本多の風邪の定番のようだ。ガタイの良い本多がプリンを食べる姿と言うのは…いささか想像だにし難いが、そもそも本多が風邪をひくこと自体稀だろうから今後も直面する確率は低そうだ。

「そうだな、食べるよありがとう」

せっかくの本多の気遣いだし、確かにこのぐらいなら喉に通りそうだ。ぱりぱりとパッケージを剥がす。熱のせいか手元がおぼつかない克哉の代わりに、本多がスプーンをビニールから出してくれた。それに軽く礼を言って受け取り、プリンを一口、もう一口と口に運ぶ。わずかな冷たさと甘さが口内に広がり、ゆっくりと肩から力が抜けていくのを感じた。

「玉子酒渇食らって寝ちまうのが一番なんだけどな」
「仕事じゃなければね」
「つか、本当は帰って寝た方がいいと俺は思ってるんだからな」

それを聞く克哉じゃないだろうと思ってのプリンだ。持つべきものは旧くからの友人だと克哉は本多の存在を本当にありがたく思った。







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